牧原出:シンポジウム「山崎正和とは『何』だったのか?」
山崎正和が語った「演出家の時代」──カセットテープが照らす思想の変遷

『舞台をまわす、舞台がまわる』(中央公論社、2017年)の元となったオーラルヒストリーに参加した立場から、お話しさせていただきます。
初回の収録は2007年に行われました。最近、研究室に残されていた資料を整理していたところ、当時の音源であるカセットテープを発見しました。再生してみると、話しぶりの「間」や空気感など、記憶とのズレに驚かされました。特に山崎正和さんが語る場面には、凜とした緊張感が漂っていました。
本プロジェクト『舞台をまわす、舞台がまわる』は「文化人と政治」をめぐる対話として始まり、初期のやりとりには控えめな空気も感じられました。その中で強く印象に残っているのが、『不機嫌の時代』(1976年)について語った次の場面です。
不機嫌というのはね、怒りではない。感情というより、発散している“気分”なんです。家族に“どうしたの?”と聞かれても“別に”と返す。けれど相手は分かってくれるはずだと思っている。これは表現ではなく、共有されるものだと信じているからです。
これらの言葉をどう読み解くべきかについて、オーラルヒストリーに参加していた苅部直・東京大学教授が『舞台をまわす、舞台がまわる』の注記で著作集の『月報』が理解の鍵になると指摘しています。あらためて『月報』を読み返してみて、私自身が特に注目したのは、山崎さんの「司会」ぶりに関する評価です。
佐藤栄作内閣期の「国際関係懇談会」議事録には、専門家ではない山崎さんが議論を整理し、方向づけていた様子が記されています。懇談会のメンバーだった高坂正堯は『月報』の中で、こうした山崎さんの姿勢を「秩序への感覚と能力」と表現し、ただまとめるだけでなく、会議を「かき廻」すことも含めた演出だったと振り返っています。

こうした司会ぶりから社会を眺めた山﨑さんは、1977年の著作『おんりい・いえすたでい’60s』で、「演出家の時代」が来たと言い当てました。このフレーズは1964年の「中央公論」でのデビュー作「演劇精神の今日的意義」ですでに登場しており、「リーダーではなく、演出家が時代をつくる」という視角が、この時期の山﨑さんには貫かれていました。それは、すべてをコントロールできるわけではない葛藤の中で、社会をひとつのリズムに引き締めていくという、緊張感を伴った演出家論でもありました。
この発想は『柔らかい個人主義の誕生』(1984年)で描いた新中間層の国家観にも通じています。オーラルヒストリーの末尾で山崎さんは、国家を「敬うのでも恐れるでもなく、いじらしく、愛すべき存在だと見る感覚を保つこと」の重要性を強調していますが、それは多元的な社会像を前提とするものでした。
しかしその後、中曽根内閣の時代に入ると状況が変わります。当時朝日新聞の紙面企画では、政治の焦点が「国民から国家へ」とシフトしたとした上で、山崎さんの言葉を借用しながら「柔らかな国家主義」が台頭していると位置づけました。時代が、山崎さんの視座とズレていったのです。中曽根首相に近づいた演出家は浅利慶太であり、山崎さんとは異なる感覚で政治と演出を結びつけていきました。「演出家の時代」という言葉が山崎さんの口から聞かれなくなったのは、この時期からです。
やがて山崎さんがたどり着いたのは「劇作家」としての立場でした。演出家が劇団や俳優、スポンサーに縛られる一方で、劇作家こそが真に「間を取る」役割を担うことができるという考えです。これは、山崎さんが実践してきた「社交」であり、『月報』の別役実との対談では「世話役」と呼んでいます。この「世話役」としての姿勢は、サントリー文化財団の創設にも反映されました。また、東亜大学学長就任時に理事長との関係を語った場面では、その語りのリズムと描写力が強く印象に残っています。
最後にご紹介したいのが、田中美知太郎による『月報』の一節です。若き日の山崎さんの戯曲『呉王夫差』の舞台を目にした田中は、「底の下に底がある」という劇的展開があると評したのです。生涯を通じて、山崎さんの語りや社交のあり方は、常にそうした深みを見つめていたのではないでしょうか。
- 牧原 出(東京大学先端科学技術研究センター教授)
- 1967年生まれ。東京大学法学部卒業。博士(学術)。東北大学法学部助教授、同大学院法学研究科助教授、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス客員研究員、東北大学大学院法学研究科教授を経て現職。著書に『内閣政治と「大蔵省支配」』(サントリー学芸賞)、『行政改革と調整のシステム』、『崩れる政治を立て直す』、『田中耕太郎』(読売・吉野作造賞)など多数。『舞台をまわす、舞台がまわる―山崎正和オーラルヒストリー』の共編者。
- (※プロフィールは2025年8月28日時点)