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三浦雅士シンポジウム「山崎正和とは『何』だったのか?」

山崎正和はこれから何を語るのか?…その思想と現代

三浦氏講演画像

山崎正和さんは、今も生きていると感じています。今でもどこかで会えるのではないかと思えるほどに、その存在は生々しく、現実感があります。ですから、このような場で山崎さんについて語ることに、どこか違和感を覚えてしまいます。

今回、『社交する人間』(2003年)を改めて読み直しました。これまで何度も読んでいますが、読み返すたびに「君、それでいいと思っているの」と、あの独特の語り口で問いかけられているような、そんな感覚に襲われます。山崎さんの言葉は、今なお現在進行形で響いてくるのです。

『社交する人間』には、現代社会に対する示唆が随所にあります。たとえば、無記名投票についての記述は非常に鋭く、民主主義の基本とされてきた制度に対して、「本当にそれでよいのか」と疑問を投げかけている。票の重みに違いがありうるなら、それを考慮に入れる方法もありうるはずだ。1票1票が個人の感情や判断を反映していないことに対する強い問題提起は、現代において考え直すべきテーマだと思います。

また、山崎さんは、理性や意識よりも人間の「感情」に重きを置いていました。人間の本質は感情にあり、社交はその感情を磨く場であるという考え方です。つまり社交とは、政治や経済の後に生まれた副次的な行為ではなく、人間の営みの原点である。そして、そこから経済が生まれ、政治が形成されたという主張です。

特に興味深いのは、近代的自我の形成についての議論です。一般的には、一神教的な神との対話を通じて、自我が形成されたとされています。しかし、山崎さんはルネサンス期のフィレンツェにおける「人前での自己表現」、つまり「見せびらかし」こそが、近代的自我の出発点であるととらえていました。このような視点の転換こそが、山崎さんの真骨頂です。

さらに近年、アントニオ・ダマシオの『デカルトの誤り』や、ヤーク・パンクセップの『感情神経科学』などが主張する「感情が意識よりも先にある」とする考え方は脳科学や神経科学の分野で主流になりつつあります。山崎さんが提示した「社交する人間」の視座は、こうした最先端の現代科学とも重なり合っています。

語る三浦氏

ライオネル・トリリングが『<誠実>と<ほんもの>』の中で展開していた、シェイクスピアとハムレットに関する議論を、著書『社交する人間』の終盤で引用しています。17世紀から19世紀にかけての「自我」の変遷をシェイクスピア作品から読み取り、「自我は複数存在し、それを統合するために感情が不可欠である」という立場を示しています。まさに現代的な解釈です。社交とは人間の仕組みを学ぶ場であり、感情がそれを支えている。これこそが山崎さんが一貫して伝えたかった核心だったのだと思います。

活字メディアの衰退とSNSの隆盛という現代社会の変化の中で、「社交」は再検討を迫られています。新聞、雑誌、単行本などのメディアはすべて「社交」を土台として成立していました。しかし、現在のウェブメディアで、「社交」は果たして本来的な役割を担い得ているのか。それを私たちはいま、真剣に考えてみる必要があります。

山崎さんの言葉は、今まさに有効性を増しています。だからこそ「山崎正和とは『何』だったのか?」ではなく、「山崎正和はこれから何を語るのか?」と問うべきなのだと思います。耳を傾けなければ聞こえてこない声もあるのです。

三浦 雅士(文芸評論家)
1946年生まれ。弘前高校卒業。1969年、青土社創立と同時に入社。「ユリイカ」、「現代思想」編集長などを務め、1980年代に文芸評論に転じる。その後、月刊「ダンスマガジン」、季刊「大航海」などを創刊、編集にあたる。主な著書に『メランコリーの水脈』(サントリー学芸賞)、『身体の零度』(読売文学賞)、『青春の終焉』、『漱石―母に愛されなかった子』、『出生の秘密』、『考える身体』、『人生という作品』など多数。日本藝術院会員。山崎正和とはサントリー学芸賞受賞以来、40年近くの親交があった。
(※プロフィールは2025年8月28日時点)